洗脳原論

洗脳原論

洗脳原論

概要

脳機能学者の苫米地氏が洗脳・脱洗脳の方法論について論じた本.自身のオウム真理教信者に対するデプログラミング(脱洗脳)施術体験を交えつつ,そのアウトラインを示している.


近年発行されている本と比べてやや硬い文体となっている.これは

  • 一冊目の著書であること
  • 内容がやや専門的であること
  • 「人々を導く」*1という観点が徹底されているわけではないこと

等が考えられる.


興味深い内容の本ではあるが,これを読んだからといって他人を洗脳できるわけでもないし,脱洗脳させることもできない.むしろ,脱洗脳の難しさがひしひしと伝わってくるため,親切心といえどもそのような行為の手伝いをしようとは考えなくなると思われる.

内容

序 洗脳というニルヴァーナ

社会にはあらゆる分野で洗脳があふれている.その意味でも

本書では,従来知られている範囲を超えてなるべく多様な洗脳に言及したいので,心の操作をマインド・コントロールではなく,洗脳という言葉に統一して著述する.

としている.また,脳機能の見地から脱洗脳も「デプログラミング」と定義している.

第1章 洗脳とは

洗脳に使われるテクニックとして「変性意識」と「ホメオスタシス仮説」が述べられている.


変性意識はヨーガやLSDなどを用いて引き起こされる夢を見ているかのような状態で,高次元空間を圧倒的な臨場感で体験できる.これにより神秘体験や至福体験が引き起こされる.この状態を洗脳のアンカリングにもちいる.


ホメオスタシス仮説は生体のフィードバック制御が心理面から肉体への逆方向へのフィードバックとして機能することを説明するものである.


洗脳の4ステップとして以下のように説明されている.

  1. 体感的条件付け:迷信等を利用して,ないものをあるように思わせる(幽霊等)
  2. 臨場感の強化:現実世界以上の臨場感を体験させる
  3. アンカーの埋め込み:トリガーにより瞬時に変性意識状態(恐怖体験・至福体験)にさせる
  4. 永遠の洗脳サイクル:洗脳が解けたことがトリガーとなり,変性意識状態に引き戻される


2.の段階では正常に見えても本人に見えている世界は全く異なっている.3.の段階でほぼ洗脳は完成しており,4.では自力では抜け出せない.


第2章 脱洗脳のプロセス

デプログラミングにおけるアンカーの発見・除去の重要性について繰り返し述べている.また,アンカーをそうとは知らずに踏みっぱなしで放置すると,被洗脳者が最悪自殺をしてしまう危険性にも触れている.


デプログラミング作業は一人で行わず,必要に応じて各専門家が担当しなければならない.たとえば精神疾患がある場合には一度精神科の医者等が患者の治療を行うべきである.


アンカーの無力化以外に以下の作業がある.

  1. イニシエーションの逆転:論理的解釈および心的外傷に対する分析的な会話等による「抑圧」された効果の無力化
  2. 意識下情報のデプログラム(準記号・非記号デプログラム):強い無意識への介入的な働きかけ(変性意識下での体験を別の方法で実現等)
  3. 記号化情報のデプログラム(リジッド・ネーム化,社会的語彙化):本名で呼ぶ,一般社会の用語を使用する
  4. カタルシスの中和化:より強烈なカタルシス体験,エクスタシー体験をさせる(本人の記憶を利用)
  5. フレームの再構築:フレーム(アルゴリズム)を変更することで,反応の意味を変える
  6. ゲシュタルトの正常化:手足の感覚・時間的感覚を実感させる
第3章 ディベートと脱洗脳の関係

著者のアメリカにおけるディベート経験と,ディベートの謝った運用における問題点を指摘している.


ディベートには競技ディベートであるポリシー・ディベートとイギリス議会の討論を模した議会ディベートがある.


ポリシーディベートとしては,アメリカの大学レベルではNDT (National Debate Tournament)とCEDA (Cross Examination Debate Association)の二つの連盟がある.NDTは競技を重要視し勝負にこだわる団体で,CEDAはディベートスキルアップと位置付ける団体という特徴がある.苫米地氏はNDTに加盟していた.また,その後ADA (American Debate Association)とNEDA (National Educational Debate Association)が作られた.


議会ディベートの連盟としてはAPDA (American Parliamentary Debate Association)とNPDA (National Parliamentary Debate Association)がある.


ディベートにおいては相手がギリギリ聞き取れる速度(英単語約400ワード/分)で喋る.また,非常に抽象度の高い世界で立体的な思考が繰り返されるため,容易に変性意識状態へと移行する.この性質はデプログラミングでも応用可能で,被洗脳者に対して理解できるよりも少し早い速度で話し続けることで変性意識状態を作り出すことができる.


ディベートとの問題点として以下のように述べられている.

世間の常識であたりまえに判断されるような善悪の基準さえもが相対化され,社会的にドロップアウトしていく.

さらに,

思考訓練としてのディベートの役割を,事実を探る客観的手法と勘違いしてはいけない.

と結論付けている.


第4章 脱洗脳のケーススタディ

オウム元最高幹部のデプログラミング・ケースについて紹介している.


第5章 アメリカ”洗脳”事情

アメリカにおける洗脳(研究)の歴史を紐解いている.


歴史的には朝鮮戦争時に捕虜となった米兵が共産党洗脳(ブレイン・ウォッシング)を受けたことに端を発する.次に科学的モデルとして心理学者D・O・ヘップの研究や,ニューラルネットワークのヘビアン・ラーニング(ヘッブの学習)の研究について言及し,感覚遮断状態において人間が特殊な意識状態になることを説明している.さらにNASAでは無重力状態での脳機能研究が継続されている.


特にベトナム戦争後に洗脳の研究が飛躍的に進んでいる.これはPTSDを抱える兵士に対し従来のフロイト派・ユング派的な方法論では治療に時間がかかりすぎるためである.これに対しエリクソン派が改良した「Invasive」という方法は短期間で治療が完結する.特にブリーフ・セラピーと呼ばれる介入的方法は一回のセッションで終了する.


近年ではビジネスでこれらの手法が応用され,たとえばNLPセミナーと呼ばれるものではセールスのための表現戦略を教える.


現代カルトはドラッグ・カルチャーとしてのミニカルトと,宗教的に純粋なミニカルトがある.


ドラッグ・カルチャーとしてのミニカルトではLSDが用いられた.LSDは絶対に一人で使用してはいけないという鉄則がある.リーダー的存在のトリップ・マスターが存在し,マリファナにおいてはその技量次第で躁にも鬱にも変移する.ローリング・ストーンズ,ドアーズといったバンドの成り立ちもここを起源とする.この手法は教育にも利用された.すなわち,アメリカの典型的な大学には必ずカルト・リーダー的教授が存在し,そのゼミでは変性意識下で一種のゲームのような議論が繰り広げられる.ドラッグも利用されるため,非常に紙一重な教育方法である.


疑似宗教的なファクターが加わったカルトは外側への成長性を持つという点で問題がある.破壊的カルトは迫害を受けると報復的になり,過激さを増す.


また,現代日本では頼る宗教もなければ精神科に気軽に受診できない.このことが洗脳やカルトにからめ捕られる危険性を飛躍的に高めていると指摘している.


第6章 私の脱洗脳論

著者がどのような経緯でデプログラマーとして活躍するに至ったかという背景の説明と宗教・哲学感を述べ,最後に洗脳について社会が認知する必要性を述べている.


著者の博士論文は計算機科学と応用数学(離散数理と代数)の学際領域で,分析哲学というジャンルに属する.また,アメリカでは哲学はどちらかというと理系に属する.


宗教は哲学の一部である.その哲学的価値は創始者が語った時代に凍結したと考えられる.したがって,その時代背景を考えずに文字面を額面通りに解釈することに意味はない.*2


宗教が世俗にまみれる中,哲学は発展を続けた.特に20世紀には数学と計算機科学が発展し,哲学が飛躍的に進歩した.つまり,21世紀において心の平安をもたらすものは宗教ではなく哲学であると結論付けている.特に日本の宗教教団の怠慢については苦言を呈しており,日本人の倫理観の低さに危機感を抱いている.


最後に洗脳への無理解が社会に及ぼしている影響を指摘している.


感想

なぜ脱会した信者が再びオウムに戻ることがあるのか不思議であった.しかし,以下の文章を読めばその理由が合理的に理解できる.

無間地獄の恐怖の臨場感世界から抜け出すために,信者は窓から飛び降りてでも逃げ出そうとする.なぜなら,オウムの誤りを指摘する家族がいる場所は,ステップ2の成果で,信者の目には無間地獄にしか見えないからである.

トリガーが起動した状態では,家族は見えていて,見えていない.家族の顔は,ある意味で,地獄の悪魔の顔にしか見えないのだ.

つまり,デプログラミングが完了していない信者には全く違う景色が見えており,我々が良かれと思ってする助言が彼らを絶望のどん底へ突き落とすのである.さらには

顔写真,オウム用語,マントラなどに無数のトリガーが埋め込まれているため,テレビを何気なく見ているだけで,それらがいっせいに発火し,またもとの世界に吸引されてしまうからである.

場合によっては,チベット密教に関する書物を読んだだけでも,トリガーが起動し,オウムに戻ってしまうことがある.

とあるように,アンカーによりオウムに戻るほうが幸福であるという結論にいたり戻っていたと考えられる.


ちなみに,テレビの危険性については

おまけにテレビを代表とするメディアの一部が,ありもしない心霊現象や超能力を,いかにもあるかのように演出して視聴率を稼ぐという構図がある.日本の若年層の洗脳のステップ1に大いに貢献していることは間違いない.

としており,このことは「テレビは見てはいけない(苫米地英人PHP新書)」でも述べられている.


他にも,幹部には高学歴の者が多数所属しており,なぜ簡単にだまされたのかも不思議に思っていた.これについても

なぜあんな学歴の高い人がカルトに洗脳されてしまったのだろうと問われることが多いが,私の知るかぎり,教義の体系の完成度うんぬんの前に,多くの場合このような圧倒的な神秘体験を経験しているものである.その体験のあまりの強烈さに,人格や考え方が一晩で変わってしまうのも特に珍しいことではない.

与えられた教義は論理的矛盾をはらんでいるのではないかと疑っても,もっと高いn次元空間では完璧な論理なのだろうと思いこんでしまうのだ.

といったあたりの説明を読めばすんなりと理解できる.


著者の述べるとおり,現代の日本は中途半端に宗教的道徳観を備える無宗教国であり精神的にすがるところがない.また,戦後絶対的な価値を置かれてきた資本主義という名の奴隷的社会構造も数多の経済状況により破たんしかかっている.このような中で身の回りの家族や知人が精神的に不安定をきたす事は大いに考えられる.そして洗脳やカルトにからめとられた時,我々がこれに関して無理解・無関心であることは危険である.


「家族の思いやりが足りないからカルトに走ったのだ」「だから誠意をもって説得しなければならない」等という感情的根性論はここでは通用しない.むしろ,洗脳状態においては状況を悪化させてしまう.


洗脳というものをどうとらえるかは人それぞれである.「そんなもの都市伝説だよ」と思う人もいるかもしれないし「私は金融資本主義という洗脳を受けている」とまで感じている人もいるかもしれない.しかしいずれにせよ,親しい人の危機に際して洗脳に関する専門家が世の中には存在し,セカンドオピニオンとして彼らの話を聞くという選択肢を持つことは決して邪魔にはならないと思う.


さらに著者は日本における宗教・哲学・倫理観・金融資本主義の問題点についても指摘しているが,これらについては他の宗教書や苫米地氏の本を読んで考えたい.


著者はあとがきの中で

あの励ましがなければ,私はすべてをあきらめ,日本を去っていたと思う.

と述べている.オウム事件にかかわることで日本の社会のゆがみを目の当たりにし,一人でも多くをすくいたいと考えた苫米地氏はこの後精力的に執筆活動を開始し,自信の役割を全うしようとしているのだと感じた.

*1:苫米地英人,「夢が勝手にかなう脳」,講談社

*2:このことは「希望のアポロギア(李聖一,新世社)」においても第二バチカン公会議以降のカトリック教会のあり方として指摘されている.