怒らないこと

怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉 (サンガ新書)

怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉 (サンガ新書)

概要

スリランカ初期仏教長老のアルボムッレ・スマナサーラ氏が日本語で書いた本(訳ではない).怒りとは何かという定義から始まり,怒りが我々の生活にどのような影響を及ぼすか,そしてどうすれば怒らずにいられるのかを分かりやすい例を交えながら説明している.


怒りは喜びを奪う.しかも,自身を滅ぼすだけではなく周囲すらも巻き込む.したがって,怒りは制御しなければならない.怒らないためには怒らないようにすればよい.そのためにエゴを捨て謙虚に人の話を聞き,無知を恥じ智慧を持つことが肝要である.


内容

第1章 「怒り」とは何?

怒らないためには,ただ怒らなければよい.要は「怒るのは私のせい」ということを徹底的に理解する必要がある.たとえば「私は正しい,相手(自分)は間違っている」「私こそ唯一正しい」と思うと怒る.逆に,「私は間違いだらけ」「言葉は正しくない」ということを理解すれば怒ることはなくなる.また,努力が都合の良い結果に結びつくことを期待するのも無知である.「我=エゴ(私は何者だ)」が無知を作り汚れが付き怒りへと結びつく.


人間の感情は「愛情」と「怒り」の二種類に分類できる.また,ヒンドゥー教では「ブラフマンは創造(愛)する.それからシヴァという神は破壊(怒り)する」,キリスト教では愛情が「神」,憎しみや嫉妬や怒りを「悪魔」として人格化する.人格化することで怒りを他人のせい(悪魔にそそのかされたetc)にする可能性がある.これに対し仏教は感情を人格化しない.これは,

「人間の感情を人格化しないように気をつけて,科学的に分析してみなさい」と,仏教では教える

ことに由来する.


どのようにして怒りが生まれるか,お釈迦様は以下のように説いている.

「私をののしった.私に迷惑をかけた.私をいじめた.私に勝ってしまった.私のものを奪った,といちいち頭の中で考えて怨み続ける.頭の中で悶々と考えている.悩んだり悔しがったりする.」


パーリー語では怒りについて細かく定義されている.

  • ドーサ:暗い
  • ヴェーラ:強い怒り
  • ウパナーヒー:怨み
  • マッキー:他者軽視
  • パラーシー:張り合う(挑戦的)
  • イッスキー:嫉妬
  • マッチャリー:物惜しみ(ケチ・分かち合うことを望まない)
  • ドゥッバチャ:反抗的(他者から学ばない)
  • クックッチャ:後悔(失敗を悩む)
  • ビャーパーダ:激怒(他者に危害を加える)

また,感情はどんどん強くなるという性質をもつ.


第2章 怒りが幸福を壊す

人間は喜びなしでは生きていけない.しかし怒りは喜びを奪う.怒りは自分を焼き尽くす火であり肉体までも蝕む.怒り続けると「怒りそのもの」になってしまうのである.しかも怒りは簡単に他者に伝染し,その者の幸福をそして社会全体の幸福を奪う.したがって

「怒りは本能なんだから,仕方ないんだ」と現状に甘えることは大変に危険な道

となる.


動物は互いの気持ちを読みながら生活をしている.動物が怒るのはその世界の道徳を破った時のみである.したがって怒る人間は動物以下であり,頭が悪いと言える.これを逆手に取り,「怒るのは徹底的に無知な人だ」と心に刻み,

怒っている自分を感じたら「私は合理的ではない完全なバカで,何も理解できない無知な人間だから怒っているんだ」

と自身を戒めるべきである.


そして,他者がどれだけ悪いことをしても,どこまでも赦す態度が肝要となる.キリスト教では「どこまでも赦す」ことは

「その教えは,間違いなく正しくて,それで幸福が得られる.神の世界(幸福という状態)が自分に現れる」

とされている.また,人格化されない仏教では

「慈しみ,赦す」

となる.すなわち,悪人を罰することよりも,そうしたいという自身の怒りをなくすのである.


第3章 怒らない人

悪いことをした人にそのことを教えるには鏡を見せることが一番である.すなわち,客観的に自己観察をすることで自分の行動の誤りを見つけ,自分で反省することに意味がある.仏教で行われる無視という罰は,これにより自身との対話を始めるきっかけを与えることとなる.


総じて偉大な人はエゴ(=面子,プライド,実体)を持っていないため謙虚であり怒りとは無縁な存在である.お釈迦さまの右腕であったサーリプッタ尊者は突然殴られても気付かないほどであった.これは一瞬一瞬の無常に完全に気付いているためエゴがないという悟りがなせる業である.アインシュタインは隣家の小学生の女の子に数学を教えたにもかかわらず「反対に,いろいろなことを教えてもらいました」というほど謙虚であった.



お釈迦さまは怒りについて以下のように説いている.

「蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように,怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は,この世とかの世とをともに捨てる.―蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである」

すなわち,薬で猛毒をなくすように怒りが生まれたらそれをコントロールし,蛇が古い皮を脱皮するように怒りを鎮めるのである.

また,

「走る車をおさえるようにむらむらと起る怒りをおさえる人―かれをわれは<御者>とよぶ.他の人はただ手綱を手にしているだけである.」

とも説いている.すなわち,怒りをコントロールする手綱を持つ人が勝利者となり,それ以外の感情を制御できないものは手綱を握っているだけである.怒らない人が怒っている人の手綱も握るリーダーとなる.


怒らないためには何があってもびくともしない心が必要である.

「私は地球のような心をつくります.人から,鍬みたいなものでちょっと穴を掘られたからといって何も動きません.地球のような心を持ちます.」

「人からどんなことを言われても,私は空のような心でいます」(空には絵を描けない)

「私は何を言われても,ガンジス川のような心で接します」(松明の火でガンジス川の水を蒸発させることはできない)

「自分の心を,ひびがひとつ入った鐘にしてみなさい」(どんな攻撃を受けても,こちらからは怒りの音は出さない)

第4章 怒りの治め方

まずは自分の怒りに気づくことである.これは,怒りは観察されると消えるものだからである.逆に,怒ったら自分は負け犬であると戒めなければならない.「何をされても怒らない」態度が重要である.


また,エゴは捨てなければならない.すべての命は「平等」であり,他者に対して怒る権利はない.したがって,「自分は偉い」と思うこと,余計なプライドを持つこと,「自分はダメな人」と思うことはエゴを持つことである.これらは「他人に負けたくない」というエゴの裏返しでもある.エゴを捨て,名前だけを持つようにすればよい.肩書を持つことは苦しみを背負うことである.自分がすべきことを精いっぱいすればよいのである.生きがいにこだわることに意味はなく,変化する状況に身をゆだねることで幸福を味わえる.人生を破壊するほどの問題はないのである.


また,小さな成功をつなげることがよい.その単位は10分ぐらいでよく,

「この10分間でやることは,精一杯やって成功するんだ」

と思うことで成功するたびに幸福感を得られる.そしてこの最小単位をつなげることで人生とする.


ただし,間違った人に対して何も言わないことは間違いである.間違いはきっぱりとした態度で愛情を持って指摘しなければならない.怒らないことと甘やかすことは違うのである.


また,怒りではなく「問題」をとらえる.相手の怒りは受け流すという智慧で勝つのがよい.それでもやりたい放題の人には鏡を見せる(善悪判断せずに相手の怒りを心配する).智慧のある人は笑いと幸せを生む.自分の心ひとつで笑うことはできるのである.また,いちいち怒っている人が出したゴミを拾う必要はない.

「怒らないこと」を実践することは,智慧を追求して,もっと幸福になるための道でもあるのです.

感想

大別すると「負の感情すべてが怒りである」というのはなるほどという感じがする.特に自分自身,後悔や嫉妬という感情をうまくコントロールできていないという自覚がある.これらの感情を持つことは「バカ」で「負け犬」であると理解しなければならない.ただ,このように思うことも負の感情であり怒りの一種であるとも考えられるが….怒りを治める初期段階では有効な手法ではあると思う.


究極的にはやはりエゴを捨てなければならない.しかしその極地は無常を知ることであり悟りを開くことであると,なかなか難しい気もする.まずは自分の立場というものから離れて,人の話を謙虚に聞くところから始めようと思う.自分が正しいという潜在的に持っている傲慢さに気付き,言葉の不完全性を認識しなければならない.


さらに,他人の怒りにも対処する必要がある.怒られるとつい反抗的な態度をとったりしがちであるが,これも改める必要があると思う.記述されているように相手を心配してあげるぐらいの心構えであれば余裕をもって対処できるのではないだろうか.


しかし,「ノコギリの譬え」では

お釈迦さまは「たとえば,恐ろしい泥棒たちが来て,何も悪いことをしていない自分を捕まえて,『こいつを切ってみよう.面白いよ』とそれだけの理由でノコギリで切ろうとするとしよう.このときでさえ,わずかでも『嫌だ』と怒ってはいけない.わずかでも怒ったら,あなたがたはブッダの教えを実践する人間ではない.だから仏弟子になりたければ,それぐらいの覚悟で生きてほしいのだ」とおっしゃいました.

とある.本来はこのような状況でも怒ってはいけないとされているのである.なかなか常人には厳しい世界だと思う.
また,自分がそこまで悟れていたとしても家族に同様の危機が迫った場合にはどうすればよいのか.本人たちが同様の悟りを開いていれば黙って見ていればよいのか.悟りを開いていない場合には暴力という怒りで対処するしかないのではないか.今の私にはその答えはわからない.

感情は,教育とか,育てられる環境とか,マスコミから流れてくる情報とか,そういうものの影響も受けます.我々の善悪判断や,ものを認識する能力は,そういうものにもマインドコントロールされているのです.

この辺りは苫米地氏の本*1にも記述されているが,一般的な見解なんだなぁという気がする.

*1:テレビは見てはいけない,PHP新書