日本とは何かということ
- 作者: 司馬遼太郎,山折哲雄
- 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
- 発売日: 1997/03
- メディア: 単行本
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概要
第一部〜第三部は司馬遼太郎氏と山折哲雄氏の対談*1を文書に起こしたものである.
明治維新で強制的にキリスト教的位置づけの国家神道が導入された.しかし,戦後それが解体され再び無神論的状態に戻った.この2度にわたる大きな変化を日本人は短期的に経験し,今なおその傷は癒えていない.
ことさら,悲観的な時代に我々は救いを求めてしまう.それがオウムのような宗教を生み出してしまったともいえる.しかし,キリスト教等の「絶対」を定義する宗教は,立場を安定させやすい半面,垣根を作り排他的になる危険性がある.
そこで我々日本人は無神論という「相対」の中で次世代を創る役割を担えるのではないか.
第四部は米山俊直氏が司馬遼太郎氏の作品や講演内容からその文明論について解説を行っている.
第五部は松原正毅氏による「裸眼の思索者」としての司馬遼太郎像が描かれている.
第六部は第一部〜第三部で司馬遼太郎氏と対談を行った山折哲雄氏が「故郷忘じがたく候」「坂の上の雲」などの作品から「豪放闊達な志の高さ」を観察する.
司馬遼太郎氏の死後(1996/2/12)に発行された本であり,彼を偲ぶという雰囲気も感じられる.また,対談自体も1995年であるため,阪神・淡路大震災やオウム真理教関連等の話題が散見される.しかし,内容自体に古さは感じられず,今もなお日本社会が抱える問題を指摘している.
内容
第一部 宗教と日本人 自然の中の神と仏
1.日本人は無神論か
阪神・淡路大震災を例に挙げ,日本人の人情は宗教的なものではなく
日本の世俗化した社会の風潮と絡まり合って,なんとはなしに,無自覚な無神論の傾向とむすびついていた
としている.
2.飼い馴らしのシステムとしての宗教
宗教は基本的に人間を飼い馴らすためのシステムであったが,日本には荘厳なものとして仏教が伝来した.
3.プロテスタンティズムと近代日本
もとの武士が忠誠心のやり場に困って,イエス様や神―ゴッド(God)と直取引をして,ゴッドの下僕になることによって,キリスト教を受容した.
たとえば,内村鑑三,植村正久,新島襄である.プロテスタントの布教はヘプバーンが行った(神奈川).
プロテスタンティズムには「絶対」の概念がある.これに対し,親鸞も阿弥陀如来はただひとつの救い主であると言うが,プロテスタンティズムとは異なる趣がある.
4.自然の中に神も仏も宿る
日本人の無神論的伝統は1500年の伝統がある.
親鸞の浄土真宗は一神教的であったが,絶対性は弱く飼い馴らしの機能はそれほどなかった.
5.「空」の思想
仏教は基本的に「空」である.
「空」はすべての元であり,すべてを生み出す.
6.「絶対」という概念・「相対」という概念
親鸞の使った「絶対」は「これしかない」という意味である(自然法爾を説く教えを「絶対不二の道」).
古代ユダヤ教やキリスト教的世界では「絶対」というものが思想のコアとなる.ギリシャ哲学も同様.「絶対」という点があると文章が書きやすい.
日本人は飼い馴らされたことのない相対的世界に住んでいる.明治時代の日本人の仏教も絶対的観念をほとんどもたなかった.
7.明治国家が作った”圧搾空気”
伊藤博文はヨーロッパで勉強し,ヨーロッパの近代社会を支えているのはキリスト教だと気づく.日本にもそういうものが必要だという観点で憲法を作った.「万世一系ノ天皇」だけでは思想家できないので神道を国家神道に仕上げ,キリスト教に代わる”圧縮空気”にした.
これを座視した明治の宗教家には問題がある.
8.一神教化された国家神道
「万世一系ノ天皇」だけでは近代国家の精神的機軸としては弱いため,伝統的な神道の中から儀礼を切りだし,そこで天皇を中心とする祭りのシステムをつくった.この祭りのシステムは宗教ではなく祭祀であると言い逃れることで「政教分離」を主張した.これにより
これは世界のどの国も経験しなかった明治維新という,つまり非常に後れたアジアで近代化を遂げるときの,無理の歪み
である.
9.伝統宗教・民族宗教へのまなざし
いずれかの宗教体系を主体的に選ぶというキリスト教的発想を無批判に受け入れ,日本の神も仏も信じる生き方を無原則な信仰であると決めつけた.すなわち西欧の宗教に対して日本の伝統宗教をマイナスに評価した.
10.キリスト教ぬきの西欧文化の受容
文明をキリスト教ぬきで受容したため,短期間で急速に日本が近代化したともいえる.
11.カトリック土着について
習俗としてのキリスト教というものも厳格に存在する.たとえば,バルセロナのモンセラート修道院にある「黒のマリア」には現世利益をお祈りしている.日本の民族宗教と近しいものがある.
第二部 日本人の死生観 「天然の無常」ということ
1.宗教・言葉・現代人
新しい宗教というものはよくないのではないか,むしろ古い宗教のほうがいい
2.明治維新と朱子学という”宗教”
水戸家は朱子学の卸問屋であった.朱子学では足利尊氏は悪で楠木正成は善である.したがって水戸家出身の徳川慶喜は宋学(朱子学)の「尊王攘夷」のスローガンのもと,自ら降参した.
3.藩という”法人”の思想
江戸末期には主君に対する忠誠心よりも「法人」としての藩への忠誠心に変わった.このことが明治維新をあっさりしたものにした.
4.吉田松陰の”淡泊”の精神
吉田松陰に代表されるように幕末の志士は死に対して淡泊であった.日本人は特定のセクトに排他的に帰属することはできない民族である.したがって藩という法人に所属しながらもその枠からはなられて自由に天下国家のために動くことができた.
5.「天然の無常」ということ
日本の自然は地震・台風・洪水・津波等が頻発する非常に不安定なものである.これが日本人の「天然の無常」という自然感覚を形作った.
6.子規と漱石の原宗教感情
子規も松陰も無神論的に亡くなっている.漱石も「こころ」において「無私の精神」に至る世界を描いている.ごく自然に出来上がった無常観の具象的世界が日本人の原宗教感覚ではないか.
7.風土と宗教
寺田虎彦の物理学者としてみた「天然の無常」と和辻の倫理学者としての「風土」.
8.高貴なる無神論あるいは「淡泊な無私の精神」
「無常観」を説明する言葉が必要である.これは
自分自身の説明がつかないときに,宗教の問題が今現実に目の前で起こってきている
からである.
それができたとき,初めて明治維新以降の,倒錯したわれわれの自己認識が回復される
9.宗教とは何かということ 風のごとく,雲のごとくに
これからの宗教は,ひょっとすると教祖がいない,教義も存在しない,そして攻撃的な布教活動もしない,そういう宗教らしくない宗教が人の心をつかんでいくようになるかも
第三部 宗教と民族 なぜ対立を生むのか
1.ナショナリズムと宗教
日蓮の国家意識と世界認識は表裏一体であり,その思考パターンが1930年代の日本国家の改造を目指す政治家の心を打った.
2.迫害・一揆・禁制―宗教抑圧と抗争と
宗教指導者が予言する→社会・体制側からの迫害→迫害に対する報復の3段階をめぐる.
3.民衆と宗教運動の時代
仏教が大衆化するのは15,6世紀の一向一揆の時代である.
4.解脱の宗教と救済の宗教
初期仏教は解脱が最終目標であるが,大乗仏教では解脱は困難であるのでそれができた例外的な人間を尊び崇める.生解脱では他人の命も軽んじてしまう危険性がある.これを悪用すると悪の集団ができあがる.
5.無宗教化した社会を救うもの
本物の宗教家を装った偽物が人々の心をくすぐる.またそうとわかっていてもそれに惹かれてしまう.そういった土壌が出来上がってしまっている.
6.宗教とファンダメンタリズム
「絶対」の概念による問題が紛争をもたらしている.特にファンダメンタリズム(復興運動)は歴史と現実を無視する過激なものである.
7.エスノセントリズムについて
エスノセントリズム(自民族中心主義)はどの民族も自分が一番であると思うことである.これのおかげで人類はあらゆる土地に独自の文化を開花させたが,同時にナショナリズムを生み出し民族問題に発展する可能性もある.
8.日本人の宗教感覚について
日本人の
態度は未来において重要である.宗教的な境界を取り払える可能性がある.
9.やり甲斐のある時代に
日本人が
そういうわりあいいい感じの宗教感覚を生かして,世界にひとつの調和をあたえる
ことで,やり甲斐のある時代になる.
第四部 「道徳的緊張」 司馬遼太郎の文明論
文明は普遍的なものであり,文化は個別で偏狭性をもつものである.
感想
日本人のルーツを探りつつ,キリスト教的発想や仏教的発想を踏まえながら我々日本人の無神論について議論がなされている.対談が行われたのが1995年ということで,まさに阪神・淡路大震災やオウムサリン事件等が起こった社会的に非常に不安定な時期である.不安定な時期こそ人間は何かにすがりたくなる.これは不景気や雇用問題,外交問題を抱える現代の日本においても同じであると言える.
対談にもあるように,宗教的な立場では日本は特殊であるといえる.また,ある意味において先端的ともいえる.ここで不安に駆られてなんらかの宗教に帰依するよりも,じっくりと腰を据えて長いスパンで物事を考えられればよいと思う.
また,
オウム真理教の場合は,その要素も入れ―矛盾に満ちているのですが―解脱も入れ,そして空海らの即身成仏という―これは空海が言ったからいいのですけれども,他の人がいうと非常にエロティックになるややこしいものですが―そういうものも入れる.
もうわけのわからないごった煮をつくって人前に出すのですが,これの一番危険なところは―禅も解脱の道なのですが―禅を生半可にやるというところにあるのであって,それををやると悪い人になりかねない.
生命はどうでもいいということになります.生命は何であるのか,つまらないものだ.つまり生命による束縛から離れるときに,他人の命も軽んじてしまう.この世を高を括った目で見くびる.この世を矮小化して見始める.
しまいに,この世を足蹴にして,どこかへいってしまえというようなところまで行く.
それが生解脱というものです.禅宗の生悟り,これは禅宗の修行者―禅をやっている人が,その境地になって,私は光を見ました,何々を見ましたとよく言うのです.
そうした修行者たちには,きちんとした師匠がいるから「お前,それはダメなんだ.その段階をみんな経たのだけれども,その段階が一番危険なのだ」という修行における注意深いサジェスチョンがあるのです.
それを悪用して,立場を替えて心理学的なマインド・コントロールに使うとしたら,それは極めて危うい悪の集団ができあがる.
という意見はまさに洗脳原論でも指摘されていた点である.